ホライズン日本人教会

Horizon Japanese Church

キリストとの同一化の力 Identification with Christ
2021-03-01
キリストとの同一化の力 Ide...

2021年2月28日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


今週、神様に語られてることは、キリストのうちに自分を見出すことの力です。やはりシェルターなどで色んな人と出会うことは日々目が開かれることです。本当に人は人からたくさんの神の恵みを受けることですね。
さて、
救い、聖化、成長、癒し、試練の中での慰めと原動力という、キリスト者の重要な方向転換、または状況変化に加速をつけるのは、キリストとの同一化であります。すなわち自分をキリストのうちに見出し、それを認めることです。

★イエスの受肉
全てはキリストの受肉から始まります。キリストの受肉を抜きに語れません。関連聖句を見てみましょう。

ピリピPhilippians 2:6-8
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; 7 rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. 8 And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!

最近、Disabled God という本を読んでいるのですが、障害をどのように神学的に理解していくかということですが、このものの見方は全ての人に力を与えます。
ここに書かれてあるように、キリストは、神です。神で有られるのに、神の有り方を捨てられました。すなわち、全能、全知、遍在、である方が、非常に限りのある肉体に生まれられたのです。全能の神にしたら人間というのは、何もできないに等しいのです。
その何もできないような姿で、その同じ姿の人間たちに仕えるられたのです。
イエス様の生き方は、人間界の文化にあり、それを理解し寄り添いながら、天の文化やり方に合わせて生きておられました。
キリストは、いつも天、いつも父を見据え、そして聖霊様に共に働かれました。
「私は父の業を行っている」ヨハネ14とイエス様は言われた。
また、イエス様はいつも寂しいところに行かれてみ父に祈っていた。

イエス様は、まず、私達と一体化、同一化することから、そのお働きを始められました。そして、彼の奉仕の中心は、父と繋がることと、父の業を行うことでした。

私達には、色々な「不可能」があります。
しかし、まず、全能な方が不可能で満ちた人間の身体に生きられたことを思い出しましょう。あなたは一人ではありません。

★救いSalvation -- 私たちの基本、希望 Our Foundation and hope
まず、キリストが私たちと同一化してくださったことで、今度は私たちがイエス様に同一化することで恵みを受けるようになりました。

ガラテヤGalatians 2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

私達の救いは、キリストの十字架と死と葬りと復活にあります。私達が自分の罪の性質を知り、それがもう死ななければ治らないことを認め、その罪がキリストのあの十字架で死んだということを認める事、そして受け取る事、私もキリストとともに死に、復活したということを信じ、私たちは救われました。

★成長 Growth -- 聖化Sanctification
この救いの法則、キリストとともに、十字架、死、葬り、よみがえりを信じること、確認すること、が私たちの聖化のプロセスでもあります。
私達は成長しない時に、二つの傾向にあります。それは、高慢になりすぎるか、出来ないに凝り固まり、自分を責めすぎる、そのどちらかです。しかし、両方は紙一重で結局同じなのです。例えば、高慢になりすぎる。=弱さを隠す。です。弱さを隠すには自分で頑張らなければならない、自分で頑張るなら、古い人が死ぬ必要がない。一方、「出来ない」に凝り固まっている方も、それ以上求めない、自分の弱さに向き合わない、古い人に死なない、信仰がいらないということで、古い性質が死ぬ必要がないのです。
私達が自分の弱さ、繰り返す同じ過ちの性質を認め、向き合い、そして、それを十字架に見る時に、私たちは初めて、純粋に信仰によって立つことができるのです。
そこから、聖霊の働きが、あなたとともにぐんぐん始まります。

キリスト者の成長はキリストと一つになることです。

★ 癒し Healing
イザヤIsaiah 53:3-5
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
He was despised and rejected by mankind, a man of suffering, and familiar with pain.
Like one from whom people hide their faces he was despised, and we held him in low esteem. 4 Surely he took up our pain and bore our suffering, yet we considered him punished by God, stricken by him, and afflicted. 5 But he was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was on him, and by his wounds we are healed.

V5 私達は、肉体の癒しを必要とする時に、このみ言葉に癒しを見つけます。私たちの痛み、病、身体の不自由をキリストの打たれた傷に見つける時に、そこに認める時に、慰めがき、癒しが来る。解放が来る。

イザヤIsaiah 61:1-3
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

悲しむもの、精神的に苦しむ者たちにも、イエス様のうちに自分を見出すことが出来ます。

★苦しみの中の慰め
私達があらゆる苦しみにある時に、私たちは聖書を開きキリストに出会うことが出来ます。イエス様は苦しみの中どうされたのか。私の苦しみとイエス様の苦しみにどんな関係があるのか、と考え黙想してみましょう。
イエス様は、人にさげすまれたとあります。神であられるのに人にさげすまれたのです。自分が不当な扱いを受ける時、イエス様を思い出しましょう。
イエス様は誤解されていました。誰よりも神の心を分かっているのに、宗教のプロからは異端者扱いでした。
イエス様は、他人の利益のために王として担がれようとしていました。イエス様はその力と求心力のために、政治的に期待されました。政治的にローマからイスラエルを解放してくれるのではないかと。間違ったプロジェクトに担ぎ出されようとしていました。
イエス様は、独身でした。独身者の苦しみ、孤独さというのは本当に辛いものですが、イエス様はそこにおられました。
イエス様には、肉の子供がありませんでした。
イエス様は友達に裏切られました。
イエス様は、両親をおいて神の働きをしなければいけませんでした。
イエス様は、人からレッテル張りをされました。大酒のみのおおぐらい。など。
イエス様は、枕するところがありませんでした。

へブルHebrews 4:15-16
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin. 16 Let us then approach God’s throne of grace with confidence, so that we may receive mercy and find grace to help us in our time of need.

★試練の中の方向性
私達が苦しむとき、私達が試練の中で行き詰まる時、ぜひ思い出してください。
イエス様も、神としての能力をよこにおいて、不自由な人間の姿で過ごされたことを。
そして、イエス様の歩みは、
父なる神様と常に繋がり、常に聞き、常に祈り、そして常に父なる神の御心とともにその使命を全うされたことを。


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