ホライズン日本人教会

Horizon Japanese Church

愛⑧すべてをがまんし、耐え忍ぶ Agape bears all things and endures all things.
2019-11-19
私の、心理カウンセリングのオフ...

私の、心理カウンセリングのオフィスです。薄いカーテンの向こうには、鯨、そして、十字架が見えるようにしています。
ベールの向こうに大きなくじらがいるーー。ベールの向こうにキリストがー。という風に、セラピーをメタフォリックに表現してみました。

2019年11月17日日曜日礼拝メッセージ


Ⅰコリント13章4-8
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
4 Love suffers long and is kind; love does not envy; love does not parade itself, is not puffed up; 5 does not behave rudely, does not seek its own, is not provoked, thinks no evil; 6 does not rejoice in iniquity, but rejoices in the truth; 7 bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.8 Love never fails. But whether there are prophecies, they will fail; whether there are tongues, they will cease; whether there is knowledge, it will vanish away.

★すべてをがまんし Bears all things
がまん…forbear, burden, carry, suffer, also cover
完璧な人はいない。もし完全ではない人を愛するなら、痛みが必ず伴うこと、またがまんが必要なことを知っていなければならない。
私は、DVの被害者のシェルターで奉仕していますが、
DV被害者のクラスでもいつも教えていることがある。
それは、恋愛関係を急がないこと、DVに至る多くの場合は、関係を急がせる罠というのがある。また、コミュニケーションの大切さ、DV被害者の多くは、コミュニケーションをよく取らないということになれている。意思疎通を確認して物事を一緒に決めるのではなく、ただ状況にひたすら合わせて行く、相手がすでに決めたことに必死でついて行くケースが少なくない。
そんなわけで、本当の愛は、そんなにすぐに育たないんだということをいつも教えています。何回も話し合って、互いを信頼していく、聞きにくいことや、話しにくいことも心を開いて話していく、信頼度によって話せる内容も広がる。それは、一日や二日でできることではない。
小さい時から、コミュニケーションが少ない家庭で育った人は特に難しいけど、じっくり、時間をかけて、人間関係を運んでいくことが健康な関係づくりに無くてはならないものです。
人を愛する時に、関係を運んで行く、将来につなげていくには、我慢が必要です。がまんというのは、時間と関わりがあります。待てないところを待つから、我慢なのです。

全てをがまんし。。。
神の愛は、全てをがまんする。私が相手をイライラさせること、また、私の過去も、私のストーリーも私の全存在をひっくるめて全てがまんし、カバーし、運んでくださる。

有名な説教者スボルジョンが言いました。すべてをがまんするというアガペーの愛は、阿古屋貝のようだと。
全くきれいでもない、ただの異物を貝の中に入れる、異物ですから、貝にとっては心地のいいものではないでしょう。しかし、時間をかけて、貝にすっぽり覆われて、隠され、育てられた真珠のいかに美しいことか。
ミキモトのサイトで調べてみると、なんと、最低でも二年はかかるようです。
そして、真珠ができるまでに死んでしまう貝が50%もあるそうです。驚きました。。。
二年という年月にも驚きです。貝のような小さな生き物にとって二年は長いですし、しかも、異物を運びながら生きる二年は大変ですね。
また、半分の貝が真珠を取り出す前に死んでしまうのですから、この、覆って持ち運ぶという事業は一生ものの正に大プロジェクトです。
私たちにとっても、そうなのではないでしょうか。私たちも生涯をかけて、全てをがまんすることをしていくのです。

★すべてを信じ Believes all things
ピステオー…誠実である、faithfulness これは、誰に対してか、ということがいつも問われます。あなたを信じていますよ、という時には、必ず、私たちが忠誠を誓ってお従いしているキリストにあって信じるという意味が込められているのです。

へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
Now faith is confidence in what we hope for and assurance about what we do not see.

へプル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
And without faith it is impossible to please God, because anyone who comes to him must believe that he exists and that he rewards those who earnestly seek him.

信仰と希望はきってもきれない関係があります。。何かを信じるには、信頼できるお方、神を信じなければならないのです。それをふまえ、次を見ていきましょう。

★すべてを期待し Hopes all things
期待する、Hope は、まだ見てないことについてです。私たちが希望を持つときには、現在をしっかり踏まえないと持つことができません。
何となく今存在しているという人には、将来について希望を持つことができないのです。
全く何も自分に希望が無いという状態であることをしっかり踏まえなければならないのです。
私のクライアントさんたちは、全てを失った人たちです。健康も、精神的にもお金、家、家族も。。。しかし、その何もなくなった時に、かすかな願いを持つのです。こうなったらいいのにな。。。。と。それが、希望を産むのです。
私も、うつになり、人間として機能できなくなった時、祈ることもできませんでしたが、ただ一言、「神様、私、幸せになりたい」と祈りのようなつぶやきを口にしました。その日から、癒しと奇跡の日々が始まったのです。
全てを期待するには、今、期待するものが無いことを知ることです。
人を愛するとき、自分に限界を感じ、また、人に絶望します。
その絶望感は無駄ではないのです。それをよくかみしめるのです。その時に、かすかな願い、希望が出てきます。神は、その希望を決して見逃しはしません。神を信じ、自分を信じ、人を信じてみようではありませんか。

★すべてを耐え忍びます Endures all things
神の愛とは、なんとなんと偉大なものなのでしょうか。。。。ここにきて、私の牧師の言葉がよみがえります。「忍耐ですね」神に仕えること、人に仕えることは、忍耐だ。牧師の働きは忍耐だと言われました。
羊飼いとして羊を養うことは忍耐であるというのです。
どういう事でしょうか。
それは、ただ、今、すべてのことを持ち運び覆うのではなく、今だけすべてのことを信じるのでなく、今、すべてのことを期待するのではなく、ずっとそうするのだ、ということです。
それを継続してこそ、アガペーの愛なのです。

私には、とても難しいことであり、ハードルが上がる言葉であります。。。
しかし、私たちのイエス・キリストが、どんなにか私を忍耐して、いつものろのろと行ったり来たりしている、同じことを繰り返すような私を、アガペーの愛で愛してくださっているかということを思い出したら、納得するのです。

もう一日、愛してみよう。と、私たちが今日思うことができたら。と思うのです。

★愛は決して絶えることがありません Love never fails
いろいろな賜物も廃れ、なくなります。大きなミニストリーも消えてなくなります。有名になった人も、いつか死にます。
しかし、その人に愛された人、その人の神の前に生きた姿は、永遠に人に霊感を与えます。
物としては残りません。目に見える物でもありません。
私たちの心にいつまでも住んで、それは無くなることがありません。
私たちも、人に愛された経験がありますね。赦されるに値しない時に赦された経験がありますね。それを通して感じた神の愛は、決してなくなることはないのです。

パウロは、コリントの人々が賜物や偉大な効果に競い合ったりしているのを見て、賜物は神からのものであり、神からのものは愛としていつまでも心に残る。。。と言っているのです。
愛は、賜物よりもさらに優れている神の道であると。

奇跡で、癒されたり、歯がはえたり、手が伸びたり今でもしますが、十人癒されたうちの一人しか感謝を伝えにイエス様に帰ってこなかったような、そのようなことが起きていたのかもれません。人は、賜物の偉大さに目を奪われて、愛につながることが無ければ、意味がないのです。


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